相台万朗GOOブログ

節分

2月2日(火)に豆まきをした。最近は妻と行っていましたが、孫が来てくれたので楽しい豆まきになりました。

 子供にとって節分の豆まきをなんでするのかわかりません。

だと思ってあらかじめ調べて置いたんだ。節分はね、季節の変わり目に、冬から春に変わる時に鬼があらわれ、家主が「鬼は外、福は内」と豆をまく。その時、ひいらぎのトゲのある木の枝にイワシを焼いた頭を枝に突き刺し、玄関に飾り付けた。

 鬼はひいらぎのトゲに刺さるわイワシの臭い嫌いな匂いに、おまけに豆をぶつけられ追い払われる。その時、人の心の鬼、嘘をつくとか悪い鬼も一緒に外に追い払う節分の行事らしい。

 昔から、戸を開けて大きな声で近所中に聞こえるから恥ずかしくて言えなかった。「鬼は外、福は内」バタン!

年の数だけ豆を食べた。

年の数ほどの煩悩があるんだろう。あなたはいくつ?

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ラジオは私の師匠

演出家宮本亜門さんが「みんなにエールを」とラジオでおっしゃっていた。

コロナで世の中がひえいしているのか戦時中のことのように感じる。

私は1951年生まれ、戦争はいったことはないし戦争を語れないのだが、マスクをしないと非国民、都会に出たわが子に帰ってこないで。都会の車番にいたずらしたり罵声をあびせたり。まるで我が国が戦争でもしているかのように“勝つまでは”と想像させられる。

私は田舎育ちでまだ怖い婦人会や役人が、アメリカ兵が怖かった。幼かったころ村人からアメリカ兵に見つかったら殺されるとまで言われたこともあった。

コロナに感染したら村八分にされるだろうとコロナより恐れていた。

さすが演出家、宮本亜門さん、人の心の裏を理解して演出をなさっていることを学んだ。村八分は日本人のいいところかもしれない。集団の秩序を守ろうと必死で、心はコロナの感染を怖がっている。心は感染で人に迷惑をかけることを恐れている行為の表れと言っていらした。

私も宮本亜門さんにエールを贈りたい。

コロナは人間にくれたエールかもしれない。生きるか死ぬかの瀬戸際で夜も寝られないでいる方には酷だろうが

私も大病で4年前に商売から撤退したが今に思う。天がくれたエールだと。

 8時から商売の幕が開けたのに8時に常連客様がいらしたらお断りできるだろうか、出来ないだろう。

 世の中の変化が速すぎて生きてもいられない。2年後の変化をよんで働き口を考えなければならないし老後はあったの?

 皆様にエールを贈りたい。一極集中の繁栄はごく一部の方のものだろう。

都会の競争に取り残された方、この

方々はこれからの社会に多く生まれるだろう。努力した方々も出るだろうし、努力しても相性があわなかったり不運もある。

 金持ちになって豪邸に、高級車に、綺麗な女性に、仕事も乗っていると流される。どうしても太刀打ちできない流れに流される。もういいや流されようとね。

 金の臭いを嗅ぎつけて犬のようにしつこく寄ってくる。臭いが無くなると離れていく。人間も動物の一種にすぎないから仕方ない。

 1958年生まれの宮本亜門さん、また話を聞かせてください。

 昔、新橋演舞場の近くでお母さんが喫茶店をやっておられたらしい。

 宮本亜門さん銀座生れだって

 

エディット・ピアフ(Édith Piaf)

フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフはボクサーのマルセル(フランス人で最初の世界チャンピオン)に恋をした。そのころピアフはアメリカで仕事することが多くなりマルセルもピアフに会うためにアメリカにいった。ある時、飛行機のフライトの変更で事故で恋人マルセルを亡くした。

恋多き女性が本当にマルセルを好きになり、結局1963年に47歳で亡くなられた。

 エディット・ピアフ(Édith Piaf)

    ある時、マルセルはピアフに尋ねた。

君はなんで悲しい歌を唄うの?   病気になる為。

                        ピアフはマルセルに尋ねた。

あなたはなんで人を殴るの?    やさしくなる為。 

 

浜辺で一人座るピアフに

誰のために編み物を? セータを着てくれる人。  

有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne à l’amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)などがある。

 私の姉が高校時代に宝塚出身の先生との出会いでシャンソン歌手になり私が後にマネージャ―をやった。初めてシャンソンを聞いたのが9歳の頃、銀座の銀巴里であった。姉は普通じゃなくきつい女性だった。しかし、世間知らずで純粋だった。脳梗塞でもう

昔に死んじまった。

 人に歴史ありだったら姉の生き方はピアフに似ていた。

 1980年からカントリー・ミュージックを始めたがシャンソンとは水と油の関係だった。フランスに行ったことはないがカントリーの本場テネシー・ナッシュビルには10回ほど行った。歌はジャンヌを問わず一緒だった。

如何に人に伝えるかだと思っている。歌もおしゃべりも

演奏も人生を伝える手段はみな違う。